復讐の美智子さま 山田侍従「追放事件」の真相

文/佐藤公子

平成皇室の実像

慈愛に満ちた平成皇室。国民と目線の高さを同じくして、ひざを折り、被災者に語り掛ける――。そんな美しい姿が実は「虚像」だったのではないかという疑惑が浮上している。

皇室に近侍した侍従たちの日記が徐々に出版されつつあるが、それらは驚くほど平成皇室に批判的なのである。たとば、小林忍侍従(1923-2006)は、平成皇室の贅沢三昧・大衆迎合に苦言を呈している。1993年の「美智子さまバッシング」で何度か取り上げられた「受勲を辞退したK元侍従」とは、まさにこの小林忍氏のことだ。

この受勲辞退騒動は、小林忍氏の日記にあるのみならず(1993.6.24付)、同僚であった卜部亮吾侍従の日記にも記されている(1993.6.15付)。やはり侍従たちの間で平成皇室への不満は多かったのだ。

今回紹介したいのは、平成の両陛下が東宮だった頃に起きた「山田侍従追放事件」である。

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山田侍従が追放された理由

美智子さまに諫言をしたら、逆鱗に触れ追放させられた――。そんな冗談のような事件が本当に起きていた。追放された本人・山田康彦さん(1907-1967)は、1933(昭和12)年に宮内省入り、東宮伝育官を務め、1959(昭和34)年から1965(昭和40)年まで東宮侍従長にあった人物である。この経歴からも解るように、明仁天皇(現、上皇)の皇太子時代を最もよく知る人物である。

問題の「追放」は、1965(昭和40)年に起きた。3月31日付けで山田は東宮侍従長を退き、書陵部長に異動した。「侍従長」は「部長」と同格であるため、左遷ではない。しかし当時、東園基文(東宮侍従、1911-2007)は、「転任原因は美智子妃に対する山田の諫言にあった」と橋本明(共同通信記者、1933-2017)に語っていたことが明らかになった。

山田侍従が美智子さまに放った諫言。その内容とは何だったのか?

東園基文 山田さんの諫言の元になったのは、正田富美子さんから東宮御所に手紙が来るたびに美智子妃がご返事を克明に書き送っておられた事実だ。

正田家といえども百年先にはどうなっているかわからない。東宮妃の立場でめったに返事をするものではない、山田さんは美智子妃にこう諫言した。明仁親王がご幼少のころ、貞明皇后に詳しい手紙を書いて出されたことがある。侍てど暮らせど返事がいただけない。お伺いを立ててみると、皇太后は孫とはいえ滅多に手紙を書くものではないとのことだった。

あれは例外的なものだった。従って山田さんの諫言は正しかったと思う。しかし結果は×(バツ)と出てしまった。山田さんは書陵部長に左遷された。

橋本明『美智子さまの恋文』新潮社、2007

美智子さまと正田家の繋がり。現在でも紀子さまと川嶋家の密接なつながりが疑問視されるが、これはいつの時代にも起こる問題なのだろう。また橋本氏は、後日、同趣旨を村井長正(東宮侍従、1915-1997)からも聞いたという。

村井長正 自分が宮内庁を退いたのは昭和四十年だが、この年に山田さんもクビになった。東宮さんが一番知っている。

美智子妃殿下はご実家にお手紙をお書きになっていた。正田家といえども百年先、いや数千年先まで安泰というわけにはいかない。おふみは慎重になさらなければいけないと妃殿下に直言した。山田侍従長の諫言に妃殿下が怒った。そこまで自由を縛るのか、顔も見たくないと東宮さまにお訴え遊ばしたのではないか。東宮さまは処置を考えられたのだろう。

橋本明『美智子さまの恋文』新潮社、2007


入江日記はかく語りき

この橋本明氏の取材記録は、実際に事件があった1965年よりもかなり後になって公開されたものである。はたしてこれは当時の日記などからも裏付けることができるのだろうか?

実はこれに符合する記述が確認される。侍従長を務めた入江相政(1905-1985)は、当時の日記に次のように記している。

1965(昭和40)年2月27日(土)

山田君来、からだもわるいし、東宮職にゐてもなんにも出来ないので書陵部長にならないかといふ話もあるといって相談、西野さんとも話し合ひ、いゞぢやあないかといふことになる。

『入江相政日記』第3巻、朝日新聞社、1990

1965(昭和40)年3月19日(金)

山田君と面談、東宮さまのところも困ったものである。

『入江相政日記』第3巻、朝日新聞社、1990

山田侍従は美智子さまに諫言したがゆえに、窓際に追いやられてしまったのだろうか? また転属前に山田侍従は、皇太子殿下(現、上皇)に次のように諫言したという。

1965(昭和40)年3月24日(水)

山田君が来て東宮さまにいろいろ、申し上げたことについての話、人づかひが荒いこと、つまらない臣下のあらをとりあげないこと、孝養をおはげみになるべきこと、常陸宮さまと御仲よく遊ばすべきこと。

『入江相政日記』第3巻、朝日新聞社、1990

美智子さまと正田家の往信については言及されていないが、当時の東宮家の殺伐とした雰囲気がよく伝わる文章である。



左遷が山田侍従の寿命を縮めた!

書陵部長に追放された山田侍従。このわずか2年後に他界している。共同通信の橋本氏は、村井元侍従から聞いた話として、次のような恐るべき内容を紹介している。

村井長正 山田さんは書陵部長に転じた。みるみるうちに山田さんは痩せていった。山田さんは生涯を明仁親王にお仕えしたいと希望した人物だった。転任の発令は突然だった。落胆が命を縮めた形だ。あっという間に他界してしまったんだ。山田さんの未亡人はカトリックの人だ。

橋本明『美智子さまの恋文』新潮社、2007

山田侍従の冥福を祈って止まない。

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17 件のコメント

  • 山田侍従は気落ちして病を得られたか、はたまた御寿命であったかは分からないが、気の毒なことである。
    やはりイエスマンしか近くに置かれないのだなあ。

    それにしても家族にもおちおちと手紙を書けないとは。皇室で起こったことを書き記して、もしも広まったら、または後世に皇后が書いたものが公開されたら、コトは重大ではある。

  • 平成の伝説。
    『美智子妃はけじめを守って,正田家とは滅多に連絡も取らず,なかなか実家の家族と会う事かなかった』と伝説のように言われ,これが一つの雅子様批判の理由になった。雅子様は決して実家からご家族と滅多に会う事も無かったのに。

    一つ分からないのは,何故実家に手紙のは返信を書いてはいけないのか,今ひとつ理解出来ないので,どなたか教えて頂けますか?

    平成は,常陸宮を筆頭に他の宮家が天皇家から無視に近い形で放置されていたというのが,個人的ない印象です。
    あまりにも専横的だった平成の皇后。
    それが今の騒動の元になっている。令和は正統な皇室にも戻ってほしいですね。

    • 追記

      上の方のコメントを読み,要するにあまり皇室内の出来事を簡単に外に知らせるなという事と解釈しましたが?

      まぁそれなら理解は出来ますが,世間一般でも嫁ぎ先の事はあまり言わないのが通常でしょう。『自由がないのか』と全てを一緒くたにして言ってしまうのもどうかと思うけど。

      皇室なのだから,そこは美智子さんが折れるべきところ,というのは厳しいですか?

      • あまり内情をペラペラ喋るなというのはごく当然のことのように思えますが。数百年前の皇后が実家に宛てた手紙に皇室内の出来事が赤裸々に書かれていたら第一級の資料です。これから数百年先も同様でしょう。
        (あの宮家のせいでそのころは皇室が有名無実になっているかもしれませんが)
        皇室とはそういうところであろうと考えます。一般家庭とは違います。

  • 上皇后さまが秋篠宮妃紀子さまを彷彿とさせるようななさり様であったことに驚きを隠せません
    まるで同じです

    • ミテコさんとキーコさんは同類

      類は類を呼ぶと云うではありませんか
      キーコさんはミニミテコさんなんですよ
      秋篠宮は結婚相手にミテコさんに似た人を嫁にしたんですね



  • とても興味深い逸話ですね。

    人使いが荒い、逆らうものは処分するというのは、山田侍従にも、皇太子付きだった浜尾実さんに共通して行われた恥ずべきこと。

    ことに、浜尾侍従は、NHKの天皇陛下の子供時代の映像にも、人柄の良さが滲んでいるほどだが、突然お付きを外された。その時、長年浜尾侍従をお側におかれて慕われていた、今の天皇陛下はまだ小学生だったでしょう。どんなにか悲しまれたか、慕われたか、心が痛みます。

    平成の天皇夫妻は、本当の意味で利己的だったのではないか。表面上、日本各地を訪れ、民に寄り添うポーズをとられていたが、近くの人々、家族や身近な世話をする心あるまた学問もある公務員には、本当の姿を見せていた。
    だから、まっとうな人は左遷され、離されるか離れ、真っ当にお育ちになられたお子様は、天皇陛下お一人だということ。

    どんどん新たに資料が出てくると思うので、隠すことのできない真実は国民の目に触れることになると思います。残念ながら、真実はそうだったかと思われます。

    • 浜尾さんあっての現在の天皇陛下だと感じます帝王学、常識教養を学ばせていただいと思います。
      令和の時代天皇皇后両陛下が真摯に国民と寄り添っていただけたら国民も益々天皇家に敬愛心を持つと思います。
      秋篠宮家には不快感です。

      • 現.上皇后は 濱尾 元侍従長の葬儀に天皇陛下(当時の皇太子殿下)を
        出席させられませんでしたよね!

        この度は、ご自身は 香淳皇后二十年式年祭 にも ご出席なさませんでしたが、
        何十年経っても、過去を水に流したり、省みて反省したりは されないのですね!

        国民も又、平成天皇皇后の なさった事をズッと忘れる事は無いでしょう。

      • 上皇后は雅子様だけでは無く、心ある優秀な人材を
        自分の感情に任せて ことごとく、いとも簡単に追放したり、
        破滅へと追い込まれたのですね。

  • もし勘違いでしたらこ指摘下さい。
    平成から令和へお代変りの時に美智子様物語?なるテレビドラマを見ました。あれは正田のお母様が残した日記が元になった脚本ではなかったでしょうか?
    美智子様が皇室に嫁がれてからのイジメが一方的な美智子様の目線でが長々と描かれていて、当事者たちはまだご存命の方もいらっしゃるのに大丈夫なの?と思って見ていた記憶があります。
    お母様ともなれば、娘可愛さで他者を悪者にするのも簡単で、これが後世の史実として残されると思うとちょっと怖いですよね。

  • 美智子さまと正田家の繋がり。
    現在でも紀子さまと川嶋家の密接なつながりが疑問視される。

    え?
    美智子様は、めったにお手紙も ご実家にも 連絡できなかった?って聞きましたが?
    頻繁に、連絡されていたのですか?

    ずいぶんと違いますけど?
    それで、雅子様 バッシングされていましたけれど?

    一般家庭と宮中では、しきたりも 何もかもが違うのは当たり前でしょう?
    雅子様も、大変でした?

    美智子様も、経験されたのでしょう?ご自分は さも あまり連絡も 里帰りも していない! と 報道?
    されていました。それでバッシング報道!
    何だろう?美智子様スゴイ!慈悲深い?って仮面!

    でも、宮中のこと書くのは不味いのでは?

    大奥のことだって、何百年 続いていたのに ほとんどわからない?
    それって、勤めていた 暮らしていた方達が 一切 外に持ち出さない 話さなかったのでは?

    びっくりの、美智子様!仮面が~ 外れる~

  • 1965年が山田侍従の追放。
    その年の秋、秋篠宮誕生。
    山田侍従は正田家の何か不穏な動きを察知したのではないですか。
    昭和天皇の「栂」のお印。「浩宮の子がつげばよい。」という言葉。全てをお見通しだったとしか思えない。

    • 多くの貴重な職員の犠牲の上で今日が有るのだから、
      その方達の無念な思いを無駄にしない為にも、
      限りなく怪しい傍系に皇統を移す事なく
      昭和天皇の重みの有るお言葉通り
      今上天皇陛下の次は直系で在らせられる
      敬宮愛子内親王殿下が次期天皇になられますように!

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