明治期の「女帝容認論」を紐解く 肥塚竜と草間時福の嚶鳴社討論

文/小内誠一

皇室典範と皇位継承問題

前回「明治期の「女帝否定論」を紐解く 島田三郎(衆議院議員)の嚶鳴社討論」と題した記事において、1882(明治15)年に行われた女性天皇の是非をめぐる議論、通称「嚶鳴社討論」の一部を翻刻紹介した。この議論の仔細は、1882(明治15)年3月14日から4月4日まで、9回にわたり東京横浜毎日新聞に掲載された。この一部は井上毅らによって引用され、帝国憲法・旧皇室典範で女性天皇が排除される要因の一つとなったことで有名だ。

このように「嚶鳴社討論」は、皇位継承問題の議論を考究するうえで、必要不可欠な資料の一つと言えるが、いまから140年近く前のものであるため、アクセスするのが困難である。そこで、この資料全体の翻刻を進めている。今回は、議論の冒頭を飾る島田三郎(衆議院議員)の「女帝否定論」に対する、肥塚竜と草間時福両氏の「女帝容認論」を翻刻したい。かなり古い文体のため読みにくいが「資料」としての価値を維持するため、現代語にして読みやすくするなどの作業はしなかった。

なお、肥塚竜(1948-1920)は、新聞記者として民権論を展開、その後は、神奈川県議、東京市議、東京市会参事会員などを務めあげた人物。草間時福(1853-1932)は、民権派記者として「朝野新聞」「東京横浜毎日新聞」などで活動した後、官吏に転じた人物として知られる。

承前

翻刻に入る前に、島田三郎による「女帝否定論」を要約しておこう。主として二つの理論から成り立っている。

  1. 女帝を立てた場合の配偶者の問題、天皇の尊厳を損なう。
  2. 女帝の配偶者が政治に干渉する恐れがある。

これに対する肥塚竜と草間時福の回答は「杞憂に過ぎない」という一点に尽きる。このうち草間時福の反論は、現代にも通じる内容でああり、興味深い。曰く、

  1. 「男が女帝に近づけば尊厳を減じる」と主張するのに、「女が男帝に近づいても尊厳を減じない」とするのは非論理的。
  2. 「女帝の婿が政治を動かす」は立憲君主国では杞憂。

というのである。現代でも一部保守派は「愛子さまが婿を取れば、向こうの家に皇室が乗っ取られる」というような危惧をする。だが、それならば「美智子さまご実家、紀子さまご実家に皇室が乗っ取られる」という可能性(?)も当然あるのだから、このような保守派の言説は非論理的であることは明白だ。このような非論理性は、実は140年の前から続いていたと思うと感慨深いものがある。

肥塚竜の女帝容認論

反論:「女帝が婿をとれば血統混雑になる」は心配しすぎ

肥塚竜氏日く、発論者は女帝を立つれば、配偶を置かざる可からず、配偶を置かば血統混雑を生ずることを患ふるものの如し。予思ふに、決して血統混雑の患なし。今夫れ男女の配偶は八等親乃至十等親となるも、之を同姓同妻らざるの規則内に入ると云わば、或は王家の血統に混雑を生ずることもあるべしと雖も、同姓相妻らずとは、斯の如き究屈なる調を云ふにあらず。現に英国の如き、同姓相要らざるの規則なれども、四等親以外は同姓相要るを得るの国法なり。

又た大宝令を見るに、我皇室には親王あり、皇族あり、皇族も其末々に至れば、平民となるの法ありと記臆(ママ)せり。左れば皇族中にも等親を分ち、例へば三等親までは相要らせ玉はざるも、四等親以外は同姓不相妻の限りにあらずとせば、皇統に混雑を生ずるの恐なし。

反論:「女帝は外国人と結婚することが“できない”」は思い込み

又論者は、外国皇室には、親交国より配偶を迎ふる法あれども、我国には此法なし、故に皇統に欠乏を告ぐと云ふ。是れ又た患ふるに足らず。成程我日本には古来外国皇室と婚姻を結ばせられたるの実例はなけれども、是れ所調る能はざるにあらずして、為ざるなり。

日本と雖ども、明治二十三年後国会を聞き、我日本の人民皆我帝室の外国帝室と婚姻あらせられんことを翼賛するあらば、我帝室は清国なり、其他の外国なり、其望ませらるる外国皇室と結婚あらせらるるも妨げなし。豈に為ざる者と能はざる者との区別をも為さずして、我帝室は外国帝室と結婚あらせられざる者と断定するを得ん乎。

反論:“女帝の婿が政治干渉する恐れがある”は杞憂

論者は云ふ、帝皇婿を立つるときは、其皇婿は往々政事に関渉するの恐ありと。是実際を知らざるの論と云はざる可からず。史の伝ふる所に依るに、女皇ヴイクトリヤは始終政党に依惜(えこ)の沙汰を為んとしたるに、幸に皇婿アルベルトの忠告あり、之れが為めに女皇の敗政も数々未発に消減せりと云へり。是れ史上掩(おお)ふ可らざるの事実ならずや。思ふに論者は皇婿を立つるには何にがな非難すべき事のあらざる欺と、只弊処のみに着目したるが為め、却て皇婿を立つるの利ある所を見落したるに由るならん。

独裁政府ならばいざ知らず、立憲国の君主は万機親裁あらせらるると云ふ者の、其実内閣大臣ありて、皇の肱股となり、耳目となり、万機の政事は顧問を経し上ならでは、之を実行せらるる者にあらず。左れば良し論者に一歩を譲り、皇婿は只弊害のみある者とするも、其皇婿一人を以て、内閣の意見を左右し得る者にあらず。論者よ、道理を以て之を云はん欺、道理は、婦女の財産所有権を剥奪せざるなり。慣例を以て之を云ん欺、我開国以来、女皇の九五の位に登らせられたるの例少とせず。形勢に照ん歟(や)、我日本国会開設の期は遠きにあらず。左れば四面八方只女帝を立つるの便益あって、弊害なし。而るも論者は尚ほ女帝を立つるの非を云はんとする欺。請ふ、説あらば其説を聞ん。(三月十五日)

草間時福の女帝容認論

草間時福氏自く、余は反対論者の一人にして、飽くまで女帝立つべきを主張するものなり。今発論者たる嶋田君の説を聞くに、其言千万一吉の長きに渉ると難も、其女帝立つべからずとする理由を要するに、左の二件に過ぎざるべし。

第一、皇帝至尊の御身に、臣下の身分として配侍することあれば、其尊厳を損ず。第二は、女帝を立つれば、其皇婿たるもの、動(やや)もすれば、暗々裡に一国の政事に干渉するの患ありと。発論者は女帝立つべからずと堂々論じ去るも、其理由とする所を詮索せば、憫(あわ)れ、此薄弱なる二論点に過きず。されば、此ニ論点にして事も女帝立つべからずとする道理とするに足らざるを弁ぜば、折角の発論も敗るるより他なかるべし。

反論:「男が女帝に近づけば尊厳を減じる」と主張するのに、「女が男帝に近づいても尊厳を減じない」とするのは非論理的

倦(さて)発論者の云ふ、臣下の身分として至尊に配侍すれば、其尊厳を減ずと云ふは、如何なることを指すもの乎。女帝に臣下の男子が配侍すれば、其尊厳を損ずと云にある乎。果して然るとせば、我国中古以来、皇妃は往々藤原氏より出るもの多し。臣下の女子が至尊に近くは其尊厳を損ずるの限りに非らずとするか。但しは藤原氏は臣下に非らずと云ふ乎。均しく臣下なり、男が女帝に近けば其尊厳を損じ、女が男帝に配侍するは其尊厳を減ぜずとするは、如何なる道理に基きて、此に区別を立つるものか。

蓋(けだ)し臣下にして至尊に配侍せば、其尊厳を損ずるものならしめば、中古以来藤原氏より皇配を出せる男帝には其尊厳を損じたるの事実あるか、之れを我史に照らすに、事も斯る事実なきに非らずや。然らぱ臣下にして至尊の配侍となるも、決て其尊厳を減ずるの理由あらざるなり。又男女の聞に区別を立て、臣下の男子が近けば、其尊厳を減じ、女子は近くも其尊厳を損ぜずとするの理由は決であるべからず。

斯く一方より観れば、発論者は猶ほ亜細亜の僻習中に迷ふて、男を人とし、女を獣として、女子の権利を破らんとするが如く、又他の一方より観れば、欧洲貴女の風習を学び、臣下の男子が近けば尊厳を損じ、女子が配侍となるも尊厳を損ぜずとす。発論者の議論全く根拠なきを見るべし。

反論:「女帝の婿が政治を動かす」は立憲君主国では杞憂

又皇婿が隠然女帝を動かして政治に干渉するの患ありと云ふ。発論者は、君主独裁の国として論拠を立るものか。若し然るとせば、其憂ひたる、豈啻(あにただに)区々皇婿が隠然政治に干渉するに止まらんや。万々一不徳の君あらせ給ふの不幸あらんには、公然意想を以て法律とし、随意に人民の自由を被壊するの憂ひもあるべし。

されば発論者の意は、立憲政体設立後のことなるべし。果して然らぱ、伺ぞ発論者の杷憂を要せん。発論者も官民の間に確乎たる憲法を立て、国家万々一不徳の君に遭遇する不幸あるも、決して人民の自由権利を害せられざるを期するならゐ。されば此の憲法にして確立せば、隠然干渉の政治を動かすを憂ふるに足らず。

発論者も憲法上女帝を立つも、其皇婿は事も政治に干渉するを許さざる個条を掲ぐるには同意ならん。此憲法あるに拘らず、此婿が干渉する患あれば、是憲法ありて憲法なきの憂なり。国に憲法ありて憲法なきの憂ありとせば、何ぞ独り皇婿の政治に干渉するをのみ憂ふべけんや。国会の議決を経ずして租税を徴収するの憂もあらん、議院の審議を過ぎずして法律の出る害もあらん。既に此の如くなれば、啻(ただ)に皇婿の政治に干渉する憂に止まらず。斯く駁し来れば、発論者の憂とする皇婿が歴然政治に干渉するの憂は、女帝を立るが為めの憂にあらずして、憲法ありて憲法なきの憂なり。憲法ありて憲法なきの憂を以て、強ひて女帝を立るの害とせば、天下何事か害あらざらん。発論者の憂や、則ち憂なりと難も、見当違の憂と謂べし。(三月十六日)

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